ようこそ 水彩ワンダーランドへ

はじめまして。三田りんかです
なぜ私がこの水彩ワンダーランドにいるのか、
ということを含めて、自己紹介をさせてください。

絵を描くことが1番の幸せだったころ

下町生まれの私は、
小さいころから絵が好きで、
暇さえあれば絵を描いてばかり。
小学校で田舎に転居したのですが、
そこは緑が豊かで虫や動物も伸び伸び暮らしているところ。
女の子だったけど、カエルを捕まえたりザリガニを取ったり、
青虫を育てたりすることが好きでした。

周りに公園もなく、友達の家も遠くてすぐ遊びに行けないので、
詰まらなければ本を読むか絵を描いて過ごす毎日。


宿題もしないで漫画を描いていると、叱られるので、
机に向かっているふりをして、こっそり漫画ばかり描いていました。

もちろん漫画ばかりではなく、図工と美術の時間がいちばん好き!で、
授業中ということも忘れて描いていました。
そして、クラスの誰もが絵が得意な子といえば「りんかちゃん」
と言ってくれるような環境で、私はちょっと天狗になっていました。

(小学校4年生の時に描いた絵です。親が大事に取っておいてくれました)

高校進学時、数学が大の苦手で、授業中も先生の話を聞きながら教科書は落書きだらけ、
テストの問題用紙の裏はイラストだらけの私が選んだのは
普通科ではなくて県に一校しかなかった美術科でした。

そこで週に13時間も美術の授業があるという夢のような高校時代をのほほんと送り、
3年生では日本画を専攻したのですが、、
周りはみんな、県下から集まった美術が好きで美術が得意な人たちばかり。
中学の時のようにクラスで絵の得意な人は私!なんて言えない状況で、
まあ、、そこそこかな…という私が芸大受験をするということに自信を持てず、
とうとう大学浪人していしまいました(いろいろ迷って目移りしてしまいました・・・)

そこでやっと自分なりに見つけた答えが、美術とは何ぞや、ということを勉強しよう!
ということ。
当時まだできたばかりで美学・美術史も学べ、
現代絵画の先生もそろっていた多摩美大の芸術学科へ進学しました。

そこでも自分の世界に浸りきった学生時代を送ることはできたのですが、
なんだか絵を描いたこともない学生たちが
画家が熱心に描いた絵を評論するということには最後まで慣れず
やっぱり私は描き手になるべきだったかなぁ、
という思いをもやっと抱えていました。
卒業後はTV番組の制作会社へ就職し、
3年後には結婚、出産、そして育児と当時の女子的には順当に過ごしました。

仕事・育児に追われる日、なんとか絵の仕事をしたい…

ありがたいことに、業界が隣接していたせいか、
そのころ働いていた会社で知り合った映像作家さんから
出版社のイラストの仕事をもらうことになり、
しばらくイラストレーターのお仕事を副業していました。

そのイラストのお仕事が楽しくて、
いずれは本業にしてイラストレーターとして活動したいと思ってはいたのですが、
子育てが始まりいろいろな制約が出てくると、それは夢として萎んでいってしまいました。

イラストレーターの仕事を考えることができなくなりはしたものの、
小さな子どもがいてもなにか学んだことを活かせる職業で復職できないものか、
かなりいろんなチャレンジをしました。

とは言え、その頃はまだ女性が子育てしながらできる仕事が限られていたことと、
子どもを預けてフルタイムで働くことが難しい時代。
とりあえず社会に取り残されないように何か仕事をしたいと思うと、
美術とは全くかけ離れた証券会社の営業をすることに(!)
数学があんなに苦手だったのに(笑)

ところが、その世界で頑張っていることで、
美術というイメージの中の仕事とは対極的な経済という現実的な世界を見ることもできましたし、そこで与えられたお仕事から今までにないたくさんの学びを得ることもできました。
ファイナンシャルプランナーの資格を取ることもでき、世界がひろがったのも、
今となっては貴重な経験のおかげです。

3人目の出産で証券会社を辞めたあとは、ミニコミ誌の記者をしたり、その関連で

(こんな漫画とか・・・)
(こんなイラスト描いてました)


漫画やイラストを描かせてもらったりして、
絵を描ける嬉しいお仕事もしました。


でも、やっぱり安定しなかったため、再び営業の仕事に戻り、
保険会社で営業や人材育成の仕事を20年近くやってきました。
その頃は完全フルタイムで遠方への出張もあり、
それなりに充実して楽しく仕事をしていました。

家族を亡くして気がついたこと

そして数年前、、

私はそれまで私を支えてくれてきた大切な家族を亡くしました。

家族が入院しているときも、私は仕事に行き、
付き添っていてあげることができませんでした。
最期のときは一緒にいたい、お互いにそう思っていたはずなのに、
私はもしかしたらということを忘れてその日の仕事に行ってしまったのです。
亡くなった知らせを受けたのは、仕事先で営業スマイルを浮かべていた直後でした。
最期に、必ずそばにいると決めていたのに。

生活のために仕事をすることは日常でも、
大切な時間のために数日休むことなんてできたはずなのに。
なぜあの日、仕事があるからと離れてしまったのだろう。

最期にそばにいてあげられなかった後悔が大きすぎて、
何のために働いてきたのかわからなくなってしまいました。それどころか、
この先何のために生きていけばいいのかとすら思うこともありました。

そして、思ったこと。亡くなった家族が教えてくれた、大切なこと。
自分の時間を、本当に大切なもののために使って生きていこう、ということ。
二度と本当に大切なものを見失わないように、ということ。

いつか最期の日を迎えたときに、後悔するとしたら、何を後悔するだろう。
そう考えたときに一番後悔するのが「絵を描かなかったこと」だと思いました。

この先、平均的にいったらまだ2,30年は生きられそうだけれど、
いつまでも五体満足でいられる保証はないです。
だったら、まだまだ健康なうちに、描きたいものを描いていきたい。
散歩で目にする美しい花、今朝見た美しい朝焼けや、大切な人たち、
大事な家族の一員のわんこもにゃんこも、みんな描いておきたい。

そんなわけで、私は大好きで大切な絵の具が描く世界へ戻ってきました。
久しぶりに絵の具を溶かし、白い紙の上に置いていくと、
水彩絵の具はまるでそれ自身が意思を持っているかのように
伸び伸びと広がっていきます。

ああ、これだ。

私は住んでいた世界はここだったのに。
私は今まで一体、どこにいたんだろう。
あんなに大切にしていた自分の世界を
生きていくために子育てのためにそれは仕方のないことだけど、
大切なものを見失っていたから
大切な時間の使い方すらわからなくなっていたんだ。

私の住む世界は、ここだった。
それを思い起こさせてくれたのが、
白い紙とその上でまるで生きているかのように広がっていく、
水彩絵の具の透明感のある色彩でした。

そして、ここでこうして絵を描きながら大切な家族と時間を過ごすことが、
亡くした家族への一番の感謝のカタチだと思っています。

ときにはどんな表情になるのか、予想がつかなくて、
でもそれが楽しくて眺めることもあります。
とはいえ、思った通りに表現できた時の嬉しさは代え難いもの。
水彩絵の具の透明で儚い色は、この紙面に描かれた一瞬は永遠ではないということを
教えてくれているようです。

目の前のものは永遠ではないけれど、
描くということはその時の感動をそこに残しておける。
素晴らしいですね。

と、いうことで、自分の育った故郷へ戻ったような、
懐かしいこの水彩ワンダーランドを思う存分味わいながら、
大好きなこの世界をみなさんに案内させていただけたら、幸せです。

これからのこと

もうすっかり子育ても終わったので、
一般的には余生と呼ばれるような年齢かもしれません。
でも、この先にはこれまでと違う
「私のやらなくてはいけないこと」が待っていると思っています。

人はどうして絵を描くのでしょうか。

昔のようにカメラがなかった時代は別として、
今は写真もビデオもAIすら登場して
絵を描くということは機会に任せることができるようになってきています。
もちろん、AIの進化は目覚ましく、
絵はAIで描くようになってしまう日が来ないとも言えません。

それでもやっぱり筆を持って絵を描きたいと思う人は
いなくならないと、私は思っています。
たとえそれが、商業的に必要なくなったとしても、
人は何かを表現しないではいられないと、思えるのです。

なぜなら、描いていること、それ自体に意味があるから。
そして、それが人間にとって必要な表現であるなら、
自分で絵を描くということは、
ずっと残っていくと信じます。

自動車ができても、電車があっても、
人は健康のために歩こうとするように、
絵を描いたり楽器を演奏するということは
なくならない。そう思います。

そして、もっと言えば、人が自由に表現することで
心を整えたり、
人が描いた絵を見て心を動かされたり
そういったことはこれからもっと求められていく
マインドフルネスの領域だと思うのです。

なので、ぜひ、
自分が描きたい世界、自分だけのワンダーランドを
ご自身の手で、筆と絵の具で、築いていただけたらいいなと思います。
私がそのガイドをすることが、これからできることなのかなと思います。

ぜひ、あなたのワンダーランドを作るお手伝いをさせてくださいね。